ジャーナリズム

1941年に4つの新聞が発行されていた。らぷらた報知は、唯一現在まで続き、西語での報道もある。
上原清利美は新聞「らぷらた報知」の創立当初よりの株主でもあり、またコルドバ在住のときは通信記者として活躍した。
当社を記者として退職した現在でも記事を執筆している。


1948年、コルドバ市。上原清利美宅にて。
らぷらた報知社長 平良賢夫氏は、コルドバ
市で病気静養中の比嘉栄一氏を訪問なされた。
前列左より:比嘉栄一氏、上原アルベルト
(清徹の長男)後列左より:比嘉実氏、
上原清利美(38歳)、清正氏、平良賢夫氏。

1963年(昭和38年)、コルドバ市・日本大通り開通式。
中央:兄の友人マキャベリ大佐。左上:上原清利美(52歳)。
(松堂リカルド昭氏撮影)


1996年ブエノスアイレス市上原清利美の人生の
歴史についてインタビューに来られたイサベル・
ロモニエ女史(人類学者)に応対する清利美(85歳)

1996年ブエノスアイレス市記事を執筆中の
上原清利美(85歳)と妻孝(80歳)

1997年(平成9年) ブエノスアイレス市左 :セリア・デ・ラ・フエンテさん。中央:人類学士、イサベル・ロモニエー女史
(ブエノスアイレス大学人類学部教授)右 :上原清利美 私の曾祖父は、日本人で、
氏名と渡航船名は知っている。この人の身の上を探して下さい。」と言って、
尋ねて来られたセリア・デ・ラ・フエンテさんに、彼女の曾祖父の写真を示している清利美。
(上原清利美が書いた今帰仁村人来亜歴史の本の中 にはっきりと記録されてあった。) 
驚いたことに、笠戸丸組で来伯、1908年にアルゼンチンに入国してきた沖縄県、今帰仁村出身の新里新清であった。
又、上原清利美ともう一つ興味ある話題として、父の足跡を辿ってきた森和子さんがいる。彼女の父上は、建築技師であった。
避暑地のオステンデ(ピナマールの近く)の都市設計をした。この人の歴史も清富が書いたもう一冊の本に書かれている。


1998年、アルゼンチン・ブエノスアイレス市ワー プロで日本文をタイプする。上原清利美。


1998年(平成10年)8月、
ブエノスアイレス市。マリサ・アルバレス先生のコンピュ
ータの個人指導を受ける上原清利美。

1999年ブエノスアイレス市アカデミーでコンピュータ
ーの講座を受ける上原清利美(88歳)

1998年、アルゼンチン・ブエノスアイレス
市コンピユ―タで日本文をタイプする上原清利美。

1999年ブエノスアイレス市自宅の中
庭で執筆中の上原清利美(88歳)


1998年(平成10年)4月7日ブエノスアイレス市新聞記者としてらぷらた報知に多くの記事を寄稿したうちの一つ、
カルロス・ガルデル氏について。

1999年ブエノスアイレス市自宅の中
庭にて上原清利美(88歳)と妻孝(84歳)

1999年ブエノスアイレス市上原清利美(88歳)、
自宅の中庭にてマテ茶を飲みながら


1968年ブエノスアイレス市上原清利美の手によって出来上がった在アルゼンチン日系人録。
らぷらた報知社編1963年より「在アルゼンティン日系録」編集の為、日本人移民の名簿結果を始めた。
花卉栽培入植者にインタビューしやすいようにジープを購入し、ブエノス アイレス市および郊外、
アベジャネダ市および郊外、コルドバ市、サンタフェ市、そしてロサリオ市、メンドサ市へとインタビューに回った。
コリエンテス州は友人を通して資料を集めてもらい、それにより計1455名にものぼる人達の資料を集めることができた。
(しかし、ある一部の人達は個人の希望により登録を断った。)
清利美さんは、ホセ・セ・パスのルータ197に持っていた土地を手離し、この本の資金へとあてた。尚、
彼は「アルゼンティンへ来た今帰仁村人会誌」の本も編集し完成させた。

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