1940年、コルドバ市にて。
伏見フリオ氏とアルフォンソ氏の送別会。
彼等は勉 学の為、日本へ出発した。当時は、
子弟達(子供達)を日本語と日本文化修学の為、
日本へ送ることは、普通であった。残念ながら、その後、
戦争が勃発し、日本へ行った子弟達(子供達)は、
身動きがとれない状態となり、戦後、初めて亜国への
帰国が許された 左より:大城守一、上原松太郎、
藤井精四郎、上原清正、大城、玉城福太郎、
上原清利美、山岸新作、大島俊一、比嘉徳栄、
宮城信光
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1942年、コルドバ日本人会創立10周年記念。
日本とアルゼンチン両国の国旗を手にして踊る児童たち。
後列中央:宮城信光校長左より:上原エミリア、恵美子、
上原ロサ、良子、大城守徳、上原フリオ、清昭、玉城芳子、
玉城アマリア、藤井オラシオ、上原テレサ、照子
当時の日本語学校は、トゥクマン街242番にあり、
民家を使用していた。この家 には、伏見秀次一家と
上原清利美カフェー横浜の店員が住んでいた。
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1942年、コルドバ日本人会創立10周年記念。
日本とアルゼンチン両国の国旗を手にして踊る児童たち。
後列中央:宮城信光校長左より :上原エミリア、恵美子、
上原ロサ、良子、大城守徳、上原フリオ、清昭、玉城芳子、
玉城アマリア、藤井オラシオ、上原テレサ、
照子当時の日本語学校は、トゥクマン街242番にあり、
民家を使用していた。この家には、
伏見秀次一家と上原清利美カフェ
ー横浜の店員が住んでいた。
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1942年、コルドバ日本人会創立10周年
記念祝賀学芸会e左より:玉城よし子、
上原エミリア、上原テレサ、玉城アマリア
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1942年コルドバ市 式に参加していた
人達といっしょに記念写真におさまる。
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1949年(昭和24年)、コルドバ日本人
会運動場聖紀園。戦争中政府に没収されていた
運動場が返還された日。ブエノスアイレスから南魚座同人が、
多数参加。会長 比嘉繁助、幹事 上原清利美(38歳)、
在亜日本人会会長西本四郎、高市繁、武田杜人、
タマ夫妻も参加。
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1949年コルドバ市(昭和24年)、
コルドバ日本人会運動場聖紀園日本人会運動場の門、
当日は記念式典があった為、木の枝で飾られた
日亜両国国旗が掲げられた。
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1949年コルドバ市(昭和24年)、
コルドバ日本人会運動場聖紀園、
ビジャ・フォレスティエリの日本人運動場の開場式で
挨拶する会長上原清正氏。参加者は記念演説を
聴聞中である。コルドバ日本語学校の生徒は
夏休み期間、この運動場の宿舎で夏期合宿をしていた。
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1949年コルドバ市、ビジャ・フォレスティエリの
日本人運動場の開場式で挨拶する会長上原清正氏。
参加者は記念演説を聴聞中である。
コルドバ日本語学校の生徒は夏休み期間、
この運動場の宿舎で夏期合宿をしていた。
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1949年(昭和24年)、
コルドバ日本人会運動場聖紀園運動場で
愉快に会談する塩沢長助氏(在亜日本人会幹事)、
新宅隆一氏(亜国日報社社長)とコルドバ
市日会幹事の大城守一氏。
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1949年(昭和24年)、コルドバ日本人会運動場聖紀園ビジャ・フォレスティエリ.
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1950年コルドバ市の県庁にて
アルゼンチンコルドバ日本人委員会は、
コルドバ日本人会運動場が返還された感謝のお礼に、
県知事ノレス・マルティネス氏を県庁に公式訪問した。
藤井精四郎(佐賀県出身)比嘉繁助(名護出身コルド
バ日本人会会長)小山三郎(静岡県出身)上原清
利美(コルドバ日本人会幹事)一人おいてノレスマ
ルティネス県知事および官職者達
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1950年6月13日 コルドバ市 サルミエント公園内
コルドバ日本語学校教師であった森田良雄氏の
送別の記念に撮った。左から 大城吉義、森田良雄、
永村清貞、古波蔵森督、上原清利美
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1990年、日亜学院、ブエノスアイレス市。
上原清利美(87歳)の孫である上原マリーナ、
みきちゃんが当学院の幼稚園に入園。
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